はじめに
前回までの記事では,サンプリングスイッチにおける オン抵抗の非線形性 や,それを改善するためのゲート・ブートストラップ回路について解説してきました.これらは,サンプル&ホールド(S/H)回路を理解するうえで非常に重要な要素です.
S/H 回路の精度を制限する要因は,スイッチが ON しているときだけに存在するわけではありません.スイッチを OFF に切り替えた瞬間にも現れます.
本記事では,この「OFF 遷移時」に発生する非理想性であるチャージインジェクション(charge injection) に焦点を当てます.特に重要なのは,問題は「電荷が注入されること」そのものではなく,その電荷が入力信号に非線形に依存することである,という点です.
この視点を持つことで,なぜ S/H 回路の設計が難しいのかが,はっきりと見えてきます.
チャネル形成(MOS スイッチが ON)
まずは,MOS スイッチが ON している状態を丁寧に確認しましょう.
nMOS スイッチを ON にすると,ゲート–ソース間に電圧 \(V_{GS}\) が印加され,ソース–ドレイン間には反転層,すなわち チャネル が形成されます.このチャネルには,自由電子が蓄えられており,有限の電荷量を持ちます.
この電荷を チャネル電荷 と呼び,ここでは\(Q_{\text{ch}}\)と表します.
理想的な一次近似では,
\(Q_{\text{ch}} \propto (V_{GS} – V_{TH})\)
と表されます.

しかし実際の MOS トランジスタでは,この関係は厳密な線形ではなく,デバイス物理や動作領域の影響を受けて 非線形性を含みます.さらに,サンプリングスイッチとして用いられる場合,ソース端子の電圧は入力信号 \(V_{\text{in}}\) にほぼ等しくなります.
その結果,チャネル電荷は
\(Q_{\text{ch}} = f(V_{\text{in}})\)
という関係を持ち,入力信号に依存した量になります.この時点では,まだ大きな問題は表面化していません.問題が顕在化するのは,このスイッチを OFF にした瞬間です.
チャージインジェクション(MOS スイッチ OFF)
次に,スイッチを OFF にする状況を考えます.すなわち,ゲート電圧を下げ,チャネルを消滅させる操作です.ここで重要なのは,チャネル電荷は突然消えることができないということです.
直前まで存在していた \(Q_{\text{ch}}\) は,必ずどこかへ移動しなければなりません.
物理的には,この電荷はソース/ドレインのいずれか,あるいは両方へ分配されます.

どちらにどれだけ流れるかは,回路のインピーダンス条件や寄生成分に依存し,一般には正確に制御できません.このとき,その一部が ホールド容量に流れ込む 可能性があります.
これが チャージインジェクション と呼ばれる現象です.
重要なのは,「どれくらい注入されるか」を正確に予測することが難しい,という点にあります.設計者は,この不確実性と向き合う必要があります.
チャージインジェクションの本質的な問題点
チャージインジェクションにより,ホールド容量へ電荷が注入されると,その影響は 電圧誤差 として現れます.静電容量の基本関係式より,下記が成り立ちます.
\(\Delta V = \frac{\Delta Q}{C}\)
すなわち,サンプリングノードに注入された電荷量 \(\Delta Q\) は,ホールド容量 \(C\) によって電圧誤差へと変換されます.
ここで重要なのは,この \(\Delta Q\) がどのような性質を持つか,という点です.チャージインジェクションで注入される電荷は,MOS スイッチが ON の間にチャネル内に蓄積されていたチャネル電荷 \(Q_{\text{ch}}\) の一部です.このチャネル電荷は,\(V_{GS} – V_{TH}\) に依存して決まり,結果として入力信号 \(V_{\text{in}}\) の 非線形関数 になります.
そのため,サンプルされた電圧は,
\(V_{\text{sample}} = V_{\text{in}} + \frac{\alpha Q_{\text{ch}}(V_{\text{in}})}{C}\)
と表されます.
ここで \(\alpha\) は,チャネル電荷のうちサンプリングコンデンサ側へ注入される割合です.この式が示している本質は単純です.サンプル値には,入力に非線形依存する誤差成分が重畳されるという点です.
ただし,ここで重要な点は,すべての電荷注入が問題になるわけではないということです.もしチャネル電荷が入力に依存せず一定であれば,誤差は毎回同じ電圧として加算されるだけであり,単なる オフセット誤差 になります.また,チャネル電荷が入力に比例する場合には,誤差は ゲイン誤差 として現れますが,これは校正や後段処理によって補正可能です.
本質的に問題となるのは,チャネル電荷が入力信号に非線形に依存する場合です.この場合,誤差は入力レベルに応じて変化し,単純なオフセット補正やゲイン補正では除去できません.結果として,この非線形成分はADC の INL や DNL を直接悪化させる歪み として残ります.
これが,チャージインジェクションが ADC 精度を本質的に制限する理由であり,S/H 回路において注意すべき非理想性とされています.
ゲート・ブートストラップスイッチ
以前の記事で取り扱ったゲート・ブートストラップスイッチを用いれば,スイッチ ON 時の \(V_{GS}\) をほぼ一定に保つことができます.一見すると,\(Q_{\text{ch}} \approx \text{const.}\)となり,チャージインジェクションの問題は解決できそうに見えます.しかし,実際にはそう単純ではありません.その理由が 基板バイアス効果 です.
多くの CMOS プロセスでは,nMOS のボディ端子は共通基板に接続されており,任意の電位に制御することができません.その結果,ソース電圧が変動すると,
\(V_{SB} \neq 0\)
となります.

この \(V_{SB}\) の変化により,しきい値電圧 \(V_{TH}\) は入力依存で変動します.つまり,\(V_{GS}\) を一定に保っても,
\((V_{GS} – V_{TH})\)
は一定にならず,結果としてチャネル電荷の非線形性は残ってしまいます.
補足:「基板バイアス効果によって \(V_{TH}\) が非線形に変動するなら,ゲート・ブートストラップスイッチでも実は \(R_{\text{on}}\) は非線形なのでは?」という疑問が浮かぶかもしれません.厳密に言えばその通りで,\(R_{\text{on}}\) にも完全には消せない非線形性は残ります.ただし,\(R_{\text{on}}\) の非線形性と,チャージインジェクションにおける電荷の非線形性とでは,ADC の性能に与える影響の度合いが大きく異なります.
この違いが腑に落ちてくると,S/H 回路設計について一段深く理解できた感覚が得られるはずです.
サンプリング容量まわりの三つの誤差現象の整理
ここまで,チャージインジェクションについて詳しく見てきましたが,サンプリング容量まわりでは,これとよく似た現象が他にも存在します.
具体的には,下記の3つです.
- チャージシェア(charge sharing)
- クロックフィードスルー(clock feedthrough)
- チャージインジェクション(charge injection)
これらはいずれも「サンプリング電圧が意図せず変化する」という点では共通していますが,発生原因・タイミング・設計上の意味は本質的に異なります.ここで一度,それらを整理しておきます.
サンプリング容量まわりの誤差現象の比較表
| 項目 | チャージシェア | クロックフィードスルー | チャージインジェクション |
|---|---|---|---|
| 本質 | 容量間の電荷再配分 | クロックの寄生容量結合 | MOSチャネル電荷の注入 |
| 主な原因 | サンプリングCと寄生Cの接続 | ゲート–ドレイン/ソース寄生容量 | スイッチON時のチャネル電荷 |
| 発生タイミング | スイッチON時 | クロックの立上り/立下り | スイッチOFF瞬間 |
| 入力信号依存性 | 基本なし(線形) | 基本なし(クロック依存) | あり(非線形) |
| 電圧誤差の見え方 | 平均化・分圧 | ステップ状のキック | 入力依存の歪み |
| 非線形誤差の原因 | ならない | ならない | なる(最重要) |
| ADC性能への影響 | 小〜中 | 中 | 大(INL/DNL悪化) |
| 代表的な対策 | 容量比設計,事前リセット | 差動化,ダミースイッチ | ボトムプレートサンプリング |
以上に整理したように,サンプリング容量まわりの誤差には複数の種類がありますが,ADC の線形性へ本質的に影響があるのは,入力に非線形依存するチャージインジェクションです.
改善策・設計のヒント
ここまでの議論から,次の結論が導かれます.
- 非線形なチャネル電荷は,プロセス起因であり 完全には消せない
- 回路技術だけで「電荷を無くす」ことはできない
したがって,改善策として考えるべきは,電荷の性質そのものを変えることではありません.非線形な電荷の存在を許容し,それがホールド容量へ流れ込ませない構造を作ることが大事です.この発想が,次回解説する ボトムプレートサンプリング の基本思想です.

まとめ
本稿では,S/H(Sample & Hold)回路において,スイッチが OFF に切り替わる瞬間 に発生する非理想性であるチャージインジェクションについて整理しました.
チャージインジェクションは,単に「余分な電荷が注入される」という現象ではなく,入力信号に非線形依存する歪みを生むという点で,ADC の精度を制限する要因になります.
ポイントを振り返ると,次のとおりです:
- MOS スイッチが ON している間,チャネル内には有限の電荷(\(Q_{\text{ch}}\))が蓄積される.
- スイッチを OFF にする瞬間,チャネル電荷(\(Q_{\text{ch}}\))は消滅できず,一部がホールド容量へ流れ込む.(チャージインジェクション)
- ホールド容量へ注入された電荷は, \Delta V = \frac{\Delta Q}{C} に従って電圧誤差として固定される.
- チャネル電荷(\(Q_{\text{ch}}\))が入力信号に 非線形に依存するため,ADC の INL や DNL を直接悪化させる歪みとなる.
- ゲート・ブートストラップスイッチを用いても, 基板バイアス効果により \(V_{TH}\) が入力依存で変動するため, チャネル電荷の非線形性を完全に除去することはできない.
- 解決策は「電荷を消す」ことではなく電荷をホールド容量へ入れない設計
チャージインジェクションは,S/H 回路の動作を理解していく中で必ず直面する非理想性ですが,その本質を「電荷の量」ではなく「入力依存性」という観点で整理すると,設計上の判断基準が明確になります.
次回は,このチャージインジェクションを回路構成によって抑え込む代表的な手法であるボトムプレートサンプリングについて解説します.
以上です.最後まで読んでいただきありがとうございました.
容量まわりの誤差現象は,回路の設計・検証を進める中で,頻繁に登場します.これらの用語や現象が明確なると,議論の解像度が一気に上がりますので,ぜひ覚えておきたいポイントです.
参考文献
本記事はあくまで筆者の勉強備忘録のため,より正確に理解したい,さらに深く理解したい場合は下記をご参照ください.
- IIT Kanpur: https://www.iitk.ac.in
- SSCD Lab: https://iitk.ac.in/sscd
- 講義動画(YouTube): https://youtu.be/cI7bYpW7EvE?si=uhuL8tSMJan23LHf
- 『アナログ/デジタル変換入門 ― 原理と回路実装 ―』 和保孝夫(監)/コロナ社
- 『ΔΣ型アナログ/デジタル変換器入門 第2版』 和保孝夫・安田彰(監訳)/丸善出版

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